「命」を考える

 人が死んだら、その魂はどこへ行くのか? 現代の科学ではほぼその存在は否定されているとはいえ、いまだに人類はその答えを明確に出せないでいる。自分や愛する人の存在が「死んだらお終い」ではあまりに寂しすぎるという人の根源的な願いが、いつまでも魂の存在を信じさせているのであろう。

 文字通りの意味で「死んだらお終い」であっても、そこまでの人生にはまったく意味がないわけではなく、むしろ限りがあるからこそ輝いているのだと考えることが出来る。逆に、何らかの形で死後生があったとしても、“この世”に再び舞い戻ることはまずないはずだ。“あの世”に行って後悔しないためにも、やはり精一杯に生きるしかない。

 平和な時代があまりにも長く続いてしまったために人はすっかり忘れてしまっていたが、自分の人生はいつ終わるかというのは、まったく予想がつかないものである。天寿を全うするのが前提の人生などは、そもそもあり得ないものだと思ったほうがいい。今回の怪獣騒動は、まるで我々日本人に改めて「命」の意味を問いかけてきているかのようだ。あの怪獣たちは神の使いであるといった類の発言を、一部の宗教関係者がしているが、それもあながち妄想ではないように思えてくる。

 とはいえ、慣れ、というのは実に恐ろしいものである。

 この半年間ほどに続けざまに起こった一連の怪獣騒動では、犠牲者の数や被災者の窮状が報道されるたびに全国民が胸を痛めていたものである。しかし、それも最初のうちだけ。今では「死者・行方不明者が数千人」という文字を見たところで、「ああ、今回はわりと少なくて済んだんだな」としか感じられなくなってしまっている。

「ギセイシャガ スクナクテ ヨカッタ」

 このロジックは、一見正論を述べているようでいて、同時に許しがたい暴言にもなり得るものだ。確かに、犠牲者の数は多いよりも少ないほうがいいに決まっている。それはきっと間違いではない。だが、本当に「いい」のだろうか? たとえ犠牲者がたったひとりだったとしても、その人には今まで積み重ねた人生があったに違いないだし、家族や友人、愛する人がいたはずだ。それが一瞬にして奪われたのである。十人なら十人の、百人なら百人の物語が、一気に終幕を迎えてしまう。数の大小ではない。ひとりひとりにとって、この世界のすべてに等しい価値があるものなのだから。

 今日も、明日も、いやこの瞬間にも、名もなき命がまた犠牲になっているのかもしれない。そう考えると、自分に何の力もないことが激しい苛立ちとなり、心を掻き毟られる思いだ。犠牲となった人のため、悲しみにくれる遺族のため、そして同じ悲劇を繰り返さないために、我々に何か出来ることはないのだろうか?

 月並みな物言いしかできないが、生き残った我々は、何が何でも生き続けること以外では、死者を弔うことなど出来ないように思う。彼らの遺志をついで、などと大層なことを言うつもりはない。誰にとっても人生はその人だけのものだから、他人が勝手に引き継ぐことなど不可能だからだ。冒頭でも書いたように「死んだらお終い」なのである。だからこそ、命は決して粗末に出来ないし、失われた命をいつまでも引きずっているわけにはいかない。どこかで自分の気持ちに整理をつけて、今度は自分の人生をまっとうできるように、前を向いて生きていくしかないのである。

 生きている。ただそれだけのことが、人にとっては最大の幸福なのだから。